総合辞書と『ロッキー』シリーズ

1989年の冷戦終結と1991年のソ連崩壊後は、唯一の『超大国』となり、強大な軍事力を背景にパナマ侵攻やソマリア内戦、イラク戦争など、各国の紛争や戦争に積極的に派兵し、またその当事国となった。1979年のイスラム革命後のイラン、1991年の湾岸戦争後のイラクなどの中東のイスラム系国家を対立視することが多いことから、イスラム系国家の国民から多くの反発を買うことになった。米西戦争以来繰り返してきた、超大国であるが故の、他国に対する認識や理解が貧弱で、他国の立場や利益に対する配慮が乏しく、国際協調を軽視して、アメリカの覇権主義的・帝国主義的な利益追求に反しない範囲内でしか他国と協力せず、国連において採択されている人権・環境・軍縮などの多国間条約にも非加盟な事例が多々ある、アメリカ合衆国の外交姿勢は、イスラエル以外の大部分の国から批判され、国際協調を尊重し、世界各国と利益を共有する中で自国の利益を追求する外交姿勢に転換することを求められている。一般に、テロ支援国家と言えばアメリカ国務省により発表されている「Patterns of Global Terrorism」に記されている、北朝鮮、シリア、スーダンなどの国家を指すが、実はアメリカ自身も積極的にテロリストを支援している国家と言われる。アメリカによるテロ支援は、主にCIAにより秘密裏に実施されていると言われ、実際にCIAによりテロ活動の教育を受けたと言う報告もある。なお、アメリカ政府は自身が支援している武装集団に対しては「テロリスト」と呼ばず、「自由の戦士」などと呼ぶ[要出典]。



1877年から1878年にかけて行われた露土戦争の紛争を収拾するためのベルリン会議では「公正な仲裁人」と自称し、全ての国から恨みを買わぬよう仲介役としてのドイツの立場を強調し、ドイツの国際的地位の向上に努めた。しかしながら、三帝同盟にも関わらずイギリス寄りの立場を取ったために、ロシアは三帝同盟から離脱することになった。ここでロシアを孤立させることを防ぐために、再びオーストリアとロシアの間でバルカン半島の利害調整を行ない、1881年に三帝協商を成立させた。しかしながらオーストリアとロシアとの利害対立を解消するのは難しいため、まず1882年にオーストリアとイタリアで秘密軍事同盟である三国同盟を締結し、オーストリアとの同盟関係を強化した。1885年からのブルガリア問題においてロシアとオーストリアの対立が解けず、1887年にオーストリアが三帝協商の更新を拒否すると、ロシアに対しバルカン半島への進出を認める代わりに同1887年に独露再保障条約を結ぶことにより、ロシアとの同盟関係を維持することに成功した。ビスマルクはヨーロッパ列強各国の利害を正確に把握し、これを外交によって操ることでヨーロッパに軽い緊張状態を作り出し、どの国もうかつに動けない状態を作り出そうとした。これがいわゆるビスマルク体制である。このビスマルクの思惑は当たり、ヨーロッパには第一次世界大戦まで続く小康状態が生まれる。



近年、他の先進国と同じくアメリカ合衆国でも有機食品への関心が高まっている。アメリカ合衆国で生産される食料の約2%は有機農法に従って生産されている。アメリカ国内での過去10年間の有機食品の売り上げは年率20%の成長率を見せている。2005年の有機食品の総売上は128億ドルを計上した[41]。 また、有機農法を用いている農地の増加率はアメリカが世界一である[42]。全米で約1500紙が発行されている。但し、多くの地方紙の内容は市町村の広報紙やフリーペーパーレベルであり、大手紙からの転載が多い。USAトゥデイ(227万部)、ウォールストリート・ジャーナル(206万部)が発行部数2強と呼ばれる。ニューヨーク・タイムズ(112万部)、ワシントン・ポスト(69万部)、ウォールストリート・ジャーナルの3紙が全米で最も影響力のある高級紙とされる。1985年の総発行部数は約6000万部、2006年が5000万部である。人口1000人当たりの普及率は約270部で、先進国では最低レベルである。様々な国から来た移民たちが持ち寄った楽器やリズムを組み合わせ発生した、古くはカントリーミュージックやジャズ、近年ではロックンロールやヒップホップなどの様々なジャンルの音楽の発祥地、本場として知られており、世界的に著名なアーティストを多数輩出している。また、これらの音楽と踊りを組み合わせたショーであるミュージカルの本場としても有名である。



田中秀幸とは二歳違いで、同じ誕生日。私立暁星小学校、私立武蔵中学校・高等学校卒。高校時代より歌手として活動し、1960年にエルヴィス・プレスリーの日本語カバー『本命はお前だ』でロカビリー歌手として本名でデビュー。雰囲気がプレスリーに似ていたことから和製プレスリーと呼ばれた(なお、当時ささきはプレスリーの映画を観たことがまったく無かったにもかかわらず「単なる真似ではなく、もって生まれたもの自体が似ている」と草野昌一に評されている)。もっとも、デビュー時マネージメントを担当した堀威夫の著書には「デビュー時の歌唱力はとても人前で披露できるようなものではなかった」と評されており、本人も当時の歌い方に対しては「気持ち悪い」「プレスリーはこんなに酷くない」など厳しい自己評価をしている。ロカビリーブームが去った後は不遇の時代を迎えたが、この時期に俳優業をこなす傍ら、歌唱を基礎から地道に勉強し直したこと(島田歌穂の父から指導を受けていた。)が、後の飛躍へとつながる。1972年に声優として、タツノコプロ製作のアニメ『科学忍者隊ガッチャマン』にコンドルのジョー役で出演。ガッチャマンの打ち上げの宴席において、余興のカラオケで主題歌を唄いこなしたことが評判になり、翌年『新造人間キャシャーン』の主題歌担当に抜擢され、ささきいさおの芸名でアニソン歌手としてデビュー。1965年発売の『ウェディングドレス』以来、約8年ぶりの新曲となった。



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