日本映画とパチンコ依存症
ロッキーにとって最大のライバルであり親友でもあったアポロの死や、国家の威信を賭けて繰り広げられる強敵との死闘など、『ロッキー』シリーズ初期のストーリーラインを締めくくる完結編と位置付けられている。『ランボー』シリーズ同様に政治的なテーマを『ロッキー』シリーズに取り入れた点では、一人のハングリーボクサーを描いてきた過去のシリーズとはスケールの面で趣きが異なる。公開当時ソ連で進められていた政治体制の改革運動ペレストロイカの風潮をストーリーに絡めており、数年後に実現した冷戦の終結を遠からず予期していた先見の明は評価に値するものといえよう。なお、当時ソ連の最高指導者であったミハイル・ゴルバチョフがモデルと思われる人物が劇中に登場する。台詞は一切話さないが非常に風貌が似ており、一見するとゴルバチョフ本人と見紛うほどのそっくりさんである(ちなみにゴルバチョフ本人のチャームポイントともいえる額の痣は無い)。
なお、初のアメリカの正規軍との戦闘となったトンキン湾事件では、アメリカ軍側に死者を出している報告はなく、この事件でアメリカ軍に多くの死者を出した。つまり先に北ベトナムが南ベトナムに対して戦争活動を起こした上に、先に北ベトナム軍がアメリカ軍人を殺害したのである。この事がアメリカの北爆を始めとする無差別爆撃や枯葉剤使用の大義名分となった。ブレイクのアメリカ軍基地が攻撃を受け、将校が多数殺害されたことに激怒したジョンソン大統領は即日、既にベトナム近海に派遣していたアメリカ海軍の正規空母の「コーラル・シー」や「レンジャー」、「ハンコック」などを中心としたアメリカ海軍第7艦隊の艦載機を中心とした航空機で、首都のハノイやハイフォン、ドンホイにある兵員集結地などの北ベトナム中枢への報復爆撃、いわゆる「フレイミング・ダート作戦」を命令した。またその後の3月26日には、初の大規模な組織的爆撃(北爆)である「ローリング・サンダー作戦」を発令し、北ベトナム沿岸部の島々とヴィン・ソンなどにある北ベトナム軍の基地を、空軍のノースアメリカンF-100 やマクドネルF-105戦闘爆撃機などで爆撃させた。
1970年代までは、12月31日(大晦日)が日曜日となった場合にも放送された例がある (1972年など)。映画自体は質の高いものや人気作品が放送されたが、当時存在感が大きかったNHK紅白歌合戦と放送時間帯が重なり、視聴率は非常に低くなった(日曜洋画としての視聴率のワーストクラスの歴代は、この場合が占めた)。この場合の視聴率の低さについて、淀川は著書で残念がっていた。外国作品では2か国語放送を行い、デジタル放送ではステレオ2音声で放送されるが、作品によっては第1音声を日本語吹き替えの5.1サラウンド、第2音声を原語のステレオ音声で放送されることがある。例外として、2000年5月7日の「ロミオ+ジュリエット」では字幕を表示し、2か国語の主音声を英語、副音声を日本語吹き替えで放送した。「土曜洋画劇場」の放送開始以来、映画解説者の淀川長治が映画の冒頭と終了後の解説を担当してきた。しかし1998年11月15日放送の「ラストマン・スタンディング」の解説を最後に、89歳で現役のまま死去した。その後、映画の解説自体をせずに放送する状態が続いていたが(たまに大塚明夫が解説をしていたこともあった)、2003年10月、テレ朝の開局45周年と六本木ヒルズの新社屋移転を機にオープニングやロゴなどを一新。週替わりで芸能人や作家、スポーツ選手などの有名人・著名人らが冒頭でその映画についての思いを語る形式になった。その後はオープニングのナレーションの担当である声優の大塚明夫が行っている。また、過去には小林一枝などテレビ朝日アナウンサーが、次回予告などのナレーションをしたことがある。
一方、北ベトナム軍もアメリカ軍が主力を送り込んだことに対抗し、「ホーチミン・ルート」を使ってカンボジア国境から侵入、南ベトナム解放戦線とともに、南ベトナム政府の力が及ばないフォーチュン山地に陣を張った。北ベトナム軍は10月19日にアメリカ軍基地へ攻撃をかけたが、アメリカ軍には多少の被害が出たものの、人的被害は無かった。アメリカ軍は北ベトナム陣地を殲滅させようとするが、険しい山地は道路が無く、車両での部隊展開は不可能であった。ここで初めて実戦に投入されたのがベルエアクラフト製UH-1ヘリコプターだった。これは上空からの部隊展開(ヘリボーン)を可能にしたことで、この戦争の事実上の主力兵器として大量生産されることになる。11月14日に、アメリカ軍はカンボジア国境から東11Kmの地点にあるイア・ドランを中心とした数カ所に、初めてベルエアクラフトUH-1を使って陸戦部隊を展開させた(イア・ドラン渓谷の戦い)。北ベトナム正規軍とアメリカ軍の戦闘はこれが初めてであったが、サイゴンのアメリカ軍司令部は北ベトナムの兵力を把握できていなかった。アメリカ軍基地襲撃の後でだらしなく逃げていく北ベトナム軍の兵士を見て、簡単に攻略できると考えていた。しかし、実際に戦った北ベトナム兵は陣を整え、山地の中を駆け巡り、予想以上の激しい抵抗をした。10月の小競り合いに始まったこの戦闘で、アメリカ軍は3、561人(推定)の北ベトナム兵を殺害したものの、305人の兵士を失った上(内、11月14日から4日間で234人)、この地を占領することができなかった。アメリカはこの後、最盛期で一度に50万人の地上軍を投入することとなる。村や森に紛れた北ベトナム兵や南ベトナム解放戦線のゲリラを探し出し、殲滅する「サーチ・アンド・デストロイ」作戦は、航空機から放たれたナパーム弾などによる農村部への無差別攻撃や、アメリカ軍兵士による村民への暴行を引き起こすこととなった。その後アメリカは、北から南への補給路(ホーチミン・ルート)を断つため隣国ラオスやカンボジアにも攻撃を加え、ラオスのパテート・ラーオやカンボジアのクメール・ルージュといった共産主義勢力とも戦うようになり、戦域はベトナム国外にも拡大した。