パチンコと政界とアメリカ軍撤退後の戦況
また「自由の国」を自称しているとはいえ、上記のように法の上での人種差別が近年まで残っていた上、現在も人種差別はあらゆる場面にみられる。また、ピューリタニズム・宗教保守派の考えの影響から性に関する問題には厳しいところもあり、州によっては婚前交渉や同棲が認められておらず、刑罰の対象となる場合もある。また妊娠中絶を合法化すべきかどうか、死刑制度を認めるかどうかなどの点で宗教的価値観などの多様性を背景とした国家レベルでの議論が繰り返されている。訴訟社会としても知られ、国内に弁護士が100万人もおり[14]、人口比では日本の25倍になる。アメリカ人自身からも行き過ぎによる弊害がたびたび指摘され、いわゆるマクドナルド・コーヒー事件はその代表例として有名になった。これは国民が多文化・多宗教の混合であるため、共通する価値判断基準が法律以外にないからだという意見がある。日本では制限されている弁護士の宣伝広告活動が認められていることから、弁護士本人が出演するCMがテレビで放送されることもある。営業活動に熱心な弁護士を揶揄するアンビュランス・チェイサー(事故で負傷者が出ると、搬送先の病院で賠償請求訴訟を起こすよう勧めるため救急車を追いかける弁護士の意)というスラングがある。アメリカの人権問題と人権状況と人権政策と歴史についてはアメリカの人権と人権政策を参照。
英語以外に先住民族であるケルト民族の言語(ウェールズ語・ゲール語など)が話されている。イングランドによる同化政策を経てケルト諸語話者は激減したが、現在はウェールズ語などの復興策もとられている。アメリカ合衆国もフランスと同様に、国家の公用語に関する法的な文章が存在しない。ただし州レベルでは英語を公用語とする州や英語とスペイン語を公用語と明文的に定める州もある。初期の頃は西ヨーロッパ系(特にゲルマン系)の移民が多く、英語優位の状況が確保されていたが、次第に東欧・南欧系が増え、さらにアジア・中南米(ヒスパニック問題を参照のこと)からの移民が大量に押し寄せてくると、英語の地位が揺るぎかねないといった風潮が英語話者(アングロ・サクソン系)の間で生まれてくる(イングリッシュ・オンリー運動)。いずれにしても英語が国家の言語(国語)として通用しているのは事実で、教育の分野においては「バイリンガル教育かモノリンガル教育か」といった趣旨の問題がたびたび持ち出される。
体育奨学金を得て入学したレザンアメリカンスクール在籍時に演劇に興味を持ち始めマイアミ大学の演劇学科に入学するも授業料の支払いが困難となり2年で中退。23歳で生誕地のニューヨークに戻り本格的に俳優を志すも、与えられる役は常に台詞の少ない端役ばかりでポルノ映画への出演やボディーガードなどをこなして日銭を稼ぐ極貧生活が長く続いた。この間上記の顔面麻痺による演技力の限界や、あまりにも典型的なシチリア人の風貌のため54回のオーディションに落ちる。大カルト映画「デス・レース2000年」に準主役として出演したのは、ロッキーのわずか半年前である。1975年、29歳の時、観戦したボクシングの世界ヘビー級タイトルマッチ「モハメド・アリ対チャック・ウェプナー」の試合に感銘を受け、それをヒントにわずか3日で書き上げた脚本をもって製作所に売り込む。脚本が気に入った映画会社は大スター(ロバート・レッドフォードらが候補)を主役にした大作として製作しようとしたが、スタローンは自分を主役にしないなら脚本は渡せないと固辞。スタローンの意見が通ったが、スターの作品でないため低予算となり、わずかな上映館でスタートした『ロッキー』であったが、徐々に大評判を呼ぶことになった。同年のアカデミー賞最優秀作品賞を受賞し、世界的な規模で大ヒット(詳細は 『ロッキー』の項で記述)となり、映画の主人公の境遇とスタローン自身のそれが「荒んだ生活から一夜にして栄光を掴む」という古典的なまでの “アメリカン・ドリーム”を体現した点で共通していることから大変な話題を呼び、多くの人間に希望を与えた功績は評価されうるものである。その後『パラダイス・アレイ』で監督業にも進出。『ロッキー』、『ランボー』、『クリフハンガー』など、常に鍛え上げた肉体を駆使した作品でアメリカを代表するアクション俳優となる。2006年、シリーズ16年ぶりの新作となる『ロッキー・ザ・ファイナル』 が公開され、2008年には、20年ぶりの新作となる『ランボー/最後の戦場』が公開された。この後には、チャールズ・ブロンソンの狼よさらばのリメイクや、クリフハンガーの続編が予定されている。2008年3月10日、Moviehole.netが、スタローンが『ランボー5』の製作途中であることを配信。そして『ロッキー7』も構想中であると噂されている。
更にフランス軍は、1946年12月19日にベトナム民主共和国へ武力攻撃を開始し、ここに第一次インドシナ戦争が勃発した。またフランスは、1948年に「ベトナム臨時中央政府」を発足させ、1949年6月にはサイゴン市(現ホーチミン市)を首都とするベトナム国を成立させて首班にバオ・ダイ帝を据え、ベトナム人民の支持を得ようとしたが失敗した。なお、バオ・ダイ帝は上記のように、ベトナム国の成立以前にホー・チ・ミンによりベトナム民主共和国政府の「最高顧問」に任命されたが、その後意見の対立からフランスに亡命していた。その後フランスは、同じインドシナのラオスを1949年7月に、カンボジアを1949年11月に独立させ、インドシナ全域に影響力を残しつつ、ベトナム国の正当性を強調しようとした。しかし、翌1950年1月にソ連と、成立直後で自らも国家国際承認を受けてすらいない中華人民共和国が、ベトナム民主共和国を正統政権と認証し、武器援助を開始した。