ランボー3/怒りのアフガンと北爆再開
警察用にはフランスで臭化酢酸エチルなどの催涙ガスが実用化された。化学兵器がその威力のほどを広く知らしめたのが第一次世界大戦だった。1914年からイギリス・フランス・ドイツの各国が、クロロアセトンやヨード酢酸エチルなどの催涙ガスの配備を始め、遅くとも1915年3月までには散発的な催涙ガスの実戦使用が行われた。塹壕戦で戦線が膠着する中で、突破手段としての期待が化学兵器に集まるようになった。そして、1915年4月22日、イーペル戦線でドイツ軍が塩素ガスを使用した。これが最初の毒性の強い化学兵器の実戦使用であるとされている。この戦いでは5700本のボンベに詰められた150〜300tの塩素が放出され、フランス軍を局地的に壊乱状態に陥れた。イギリス軍も同年9月には塩素ガスを使用した。同年12月にはドイツ軍がホスゲンガスを同様に使用し始め、改良型のジホスゲンも使われるようになった。これらは風向きを考慮に入れ、相手陣地の風上から燻すような方法が取られた。
この様に内政干渉を繰り返すケネディ政権を、完全に敵対視するようになったジェム大統領に対して、ケネディ大統領は9月2日にウォルター・クロンカイトとのインタビューの中で「サイゴン政府(ジェム大統領)が国民の支持を得るためにより大きな努力をしなければこの戦争には勝てない。最終的にはこれは彼らの戦争だ。勝つか負けるかは彼らにかかっている。我々は軍事顧問団を送り、武器を援助することはできる。しかしこの戦争で実際に戦い勝たねばならないのは彼ら自身なのだ」とジェム大統領に対して警告した上で「『アメリカは(南ベトナムから)撤退すべきだ』という人たちには同意できない。それは大きな過ちになるだろう」と述べ[8]南ベトナムからのアメリカ軍「軍事顧問団」の早期撤収を主張する国内の一部の世論に対して反論した。この様にアメリカ軍「軍事顧問団」の早期撤収には反対したものの、ジェム大統領率いる南ベトナム政府への単純な軍事支援を続けることに限界を感じていたケネディ大統領とマクナマラ国防長官は、対立が深まりアメリカ政府によるコントロールが利かなくなっていたジェム大統領への揺さぶりをかけることも踏まえて、これまでのようなアメリカ軍「軍事顧問団」の増強方針から一転して、10月31日に「1963年の末までに軍事顧問団から1、000人を引き上げる予定」であることを発表した。そして11月には、マクナマラ国防長官が年内の1、000人の「軍事顧問団の引き上げ予定」を再確認するとともに、「アメリカ軍『軍事顧問団』を段階的に撤収させ、1965年12月31日までには完全撤退させる計画がある」と発表し、自らが拡大した軍事介入を縮小させると発表することで、最大の支援国であるアメリカに対し敵対的な態度を取り続けるジェム政権に揺さぶりをかけた。
また、経済のグローバル化や冷戦時代に軍事用として開発されたインターネット・ITが民間に開放され、流行した。1992年からの民主党政権下では、ITバブルと呼ばれる程の空前の好景気を謳歌した。21世紀になったばかりの2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件を境にして世界の情勢は劇的に変化し、各国間の関係にも大きな変化がおこるきっかけとなった。同年、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、テロを引き起こしたとされるアルカーイダをかくまったタリバーン政権を攻撃するため、10月にアフガニスタン侵攻を開始した。また、米国愛国者法が制定されたが、これをきっかけにアメリカは、警察国家の様な傾向があると言われている。2002年には、イラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」や「テロ支援国家」と名指しで非難し、世界規模での「テロとの戦い」を宣言した。2003年3月には、イラクをテロ支援と大量破壊兵器保有を理由にイラク戦争に踏み切ったが、大量破壊兵器は見つからず「石油を狙った侵略行為」と批判する声があがった。
1996年8月27日、肺癌のため昭和大学附属藤が丘病院にて死去。65歳没。小林の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。青二プロ所属声優の中でも、大ベテランの一人。シリアスなキャラクターからコメディー色の強いものまで幅広く演じ、関西弁で演じる事もある。